【ブラタモリ】甲賀・信楽~歴史は甲賀で動いた!?

  • 2020/3/10
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ブラタモリ、先週の「なぜ伊賀はNINJAの里になったのか? 」に続いて、今週も忍者。いよいよ甲賀市にスポットが当たります。
忍者ネタが二週続いたせいか、甲賀市のテーマは「忍者」と「信楽焼」です。
ひと月ほど前に、甲賀市内でブラタモリのロケが目撃されていましたので、待ちに待った放送となりましたので、放送の内容を簡単にメモしておきます。

▼NHK・ブラタモリ「甲賀・信楽~歴史は甲賀で動いた!?」/ NHK
https://www4.nhk.or.jp/buratamori/x/2020-03-07/21/14681/2009158/

▼【ブラタモリ】忍者「なぜ伊賀はNINJAの里になったのか? 」番組内容メモ / kokaindex
https://kokaindex.com/archives/9432

歴史は甲賀で動いた!?


 
油日神社からスタート。
忍者装束のタヌキの信楽焼きが登場。

甲賀市教育委員会の古谷さん登場。
今日は、信楽エリアと甲賀エリアに分けて進行される。
分けた理由が、最後にまとまるらしい。

一つ目のお題は「歴史は甲賀で動いた!?」
甲賀の武士たちは、歴史の表舞台に深く関わっていた。
甲賀武士とは、甲賀に暮らす地侍のこと。

油日神社の拝殿は、各地の甲賀武士の長が集まって話し合いをしていた。
その内容が今日のポイント。

戦国時代、甲賀は近江国の南、伊賀と接する重要な場所にあった。
甲南町?の山中に移動。
ここは、10mもの高さがある土塁に囲まれた城。
この土塁の城は、伊賀同様、近隣の小競り合いの防衛のために作られた。

▼甲賀市の土塁に囲まれた小さなお城たち。
https://kokaindex.com/archives/3506

では、伊賀との違いはなにか?

甲賀の土塁の城。山林の中の高い土塁の上を歩く。
伊賀の城では、石を落とすような仕掛けがあり、堀も何重にもなっていたが、
甲賀の城には、仕掛けがなく、堀は一重。
甲賀は守りを考えず、城が進化していない。
一方、伊賀は、織田の侵攻があったため城を進化させる必要があった(天正伊賀の乱)。
甲賀は、織田と手を組んで伊賀侵攻に加勢した。
甲賀は、卑怯と捉えられるかもしれないが、戦国時代を生き抜くためには重要な選択だった。
戦国の時代に、誰に着くか?見極める能力に長けていた甲賀武士。

甲賀で起こった、歴史上の3つの大きな出来事

鈎の陣
将軍・足利義尚の六角討伐の際、甲賀に逃げ込んだ六角を甲賀武士が守り、室町幕府の権威が失墜し戦国の世の中に突入することになった。

天正伊賀の乱
織田の伊賀侵攻に加勢して伊賀を滅ぼし、織田の勢力が増すことに。

神君伊賀越え
本能寺の変を知った徳川家康は、明智軍から逃亡する。その際の伊賀越えを手助けした。
このように、甲賀武士は歴史のなかで重要な役割をになった。

甲賀はなぜ、歴史上の大きな選択を迫られたのか?


 
それは効果の立地が関係している。
甲賀は、近江国であり、伊賀よりも京都に近い、有事の際は、攻め込まれたり避難場所に選ばれる場所だった。
そのため、選択の判断を迫られることが多かった。
その話し合いをしていたのが、油日神社だった。

そんな甲賀が逆風にさらされることがあった。
水口、東海道へ移動。
東海道が三本に分かれる「三筋の道」へ。
江戸時代の地図で見る。「三筋の道」は16世紀の末に豊臣秀吉によって作られた。
豊臣は、小牧・長久手の戦いで家康に加勢した甲賀武士を制圧するために、
古城山の麓に、もともと一本だった道を三本に増やして城下町にして、甲賀武士を住まわせ監視をした。
さらに、甲賀武士の話し合いを禁じ、武士の身分を剥奪した。
こうして甲賀武士の時代が終わった。

古城山の上へ移動。先ほど居た位置が良く見える。
後の東海道が良く見渡せる場所で、すぐ隣の鈴鹿山脈は東の最前線。
ここは京都への入り口、ここを押さえておくことが重要なので、甲賀武士を押え込んでおくことが大切だった。

「歴史は甲賀で動いた!?」といえるのではないか?ということ。

「なぜ信楽焼きは日本を代表する焼きものになった!?」

続いて信楽のテーマへ。
先ほどの「三筋の道」に戻る一行。「お壺置き所」という場所へ。
そこへ「お茶壺道中」の籠がやってくる。籠には、宇治のお茶が入った信楽焼きの壺が乗せられている。
江戸幕府・将軍が飲むお茶を、宇治から江戸へ運ばせたのが「お茶壺道中」で、一行の休憩場所が「お壺置き所」。
「お茶壺道中」を歌った歌が、「ずいずいずっころばし」だという。
信楽焼きがお茶壺道中に使われたことで、その後信楽焼きのブランドがあがった。

ここで、次のお題「なぜ信楽焼きは日本を代表する焼きもになった!?」

信楽の中心地へ。


 
陶器店、タヌキの置物が多数並ぶ。
信楽陶芸の森・大槻凛子さん登場。

なぜタヌキの置物が有名になったのか?
それは、昭和26年、信楽の人々がタヌキの置物で天皇陛下をお迎えしたことが始まり。

そのほかにも、信楽焼きを認めた著名人が居た。
その理由は、信楽焼きが「変幻自在」だから。
これまで信楽焼きで作られたものの紹介。火鉢、手榴弾、地雷…。
クイズ。鉄道関連で信楽焼きで作られたものは?答えは「駅弁につける、お茶の入れ物」。

信楽焼きは変幻自在。大きなバスタブの紹介。
そのほかにも、岡本太郎が製作した太陽の塔の背中の顔、国会議事堂の屋根のタイル、大塚美術館の美術品の再現…などに使われている。

15世紀以降、名だたる茶人が愛用した信楽焼き。
千利休もそのひとり。
飾り気のなさが、侘び寂びの精神に受け入れられた。
信楽焼きの特徴である、蟹の目(表面の白いブツブツ)や自然釉(ガラス質な部分)、火色(赤い色)。
これらが茶人たちに好まれた。
これを生み出すのが信楽の土。

信楽の粘土を採掘していた場所へ。

土を見るタモリさん。
土の中に、石英、長石が含まれている。
石英と長石は溶けてガラス質になり、自然釉を生み出す。
「蟹の目」は長石がガラス状になって表面に出て来たもの。
さらに、大きな焼き物の場合、石英、長石が混ざることで成型時に形が崩れずに保たれる。

石英、長石が含まれる信楽の粘土の元は花崗岩。花崗岩は風化すると石英、長石になる。
地図で、甲賀・信楽地域の花崗岩の分布を見る。信楽地域は花崗岩の層が広がっている。
300万年前、信楽は湖の周りに広がる湿地帯で、風化した花崗岩が降り積もり、石英と長石が混ざった信楽の粘土ができあがった。
火色(赤色)は、花崗岩に含まれた鉄分が酸化することによるもので、花崗岩が含まれる割合が多くても少なくても火色にはならない。
この土があったから、信楽が日本有数の焼き物になった。

ふたつのテーマ

全く別の地域のような二つの町。
地図で見ると、信楽地域にのみ花崗岩が分布しており、
花崗岩がない甲賀地域には、甲賀武士の土塁の城が多数分布している。
片方は焼き物、片方は歴史と政治、地質が全く違う性格の文化を育んだ。

以上

この記事を書いた人

kokaindex
kokaindex
地元甲賀内から県内で印刷・web制作、写真撮影などをしています。デザイナー、写真愛好家。
2000年からホームページ・ブログを開始、写真、デザイン、地域...について発信を続けています。ここでは、甲賀市の面白いことを取り上げて記事にしています。特に文化・芸術・カフェ・地域振興のことが多めです。
FUJFILMのカメラ愛好者。PHaT PHOTO100Point達成。


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